通勤風景

突然ですが、日本人が変わったなというのを肌で感じるなら、通勤電車だと思います。これはあくまで私見なので一概には言えないと思いますが1年ぐらい日本を空けて帰ってきて、それを感じたのです。

そう、あれぁ2006年の秋ぐらいか
長い職探しを終えて通勤電車に乗り始めて、ふと気づいた。人が人と距離を取りたがっている。それまでなあなあにまあ仕方が無いからもみ合いながら行きましょうや、という汗臭い協力の了解という共通コードみたいなものがあったのだけれど、薄れ始めているなあ、と思った。電車が出ようとするとき、あわてて乗り込んでくる人はまあ、遅刻しちゃ給料減らされるから急いでんでしょ乗りな乗りな、とでもいう空気があったんだ。ぼくは高校の時から電車通学だったし、通勤ラッシュはそれこそ乗りなれているつもりだが、2006年の秋にその異変に気づいたのだった。

とにかく、皆触れ合いたくない、関わりたくないという空気。その代わりに圧倒的に増えたのがミュージックプレイヤーを聞いてる人とケイタイやポータブルゲーム機に顔をつっこんでる人々。本や漫画を読む人というのは相変わらずとても多いが、皆一様に壁をつくってこらえている。かくいう自分も、常にイヤホンを耳に目を閉じているが、混んできたら自然に奥に詰めようとかの感覚はまだ持っている。汗臭い協力の了解というやつだ。だが上等な背広着込んだ素敵サラリーメンが皮膚感覚としてそういう事に対し鈍感なのか、それとも意図的に無視しているのか、無関心なのか知らないけど混んできても本当に何もしない。

いっそのこと、皆武装したらどうだろう?
これは極論。でも、なんかの映画で見たんだよな。エルサレムで主人公とラビがぶっかって、物凄く丁寧に詫びあって、ごきげんようと挨拶をかわす。そのあと主人公はこう漏らす「みんな銃を持ってれば、ほんとに礼儀正しくなる」と。ヘッドホンなんかおちおち聞いてられないし、混雑した電車では隣の人の足を踏まないか、必死で気を付けなければならない。自然に年寄りにも席を譲るだろう。道理にうるさい神経質な男といつ黒い奴を額に突きつけ合わなければならないかもしれず、面倒だから。そしてなにより皆ハッピーになれる。他人との距離をはっきり取れるようになるじゃないか。白人ワナビな人にもやっと自分が独立した自我を得たと思わせられるんじゃないか。

極論終わり。
で、やっぱり日本人は変わったんだと思う。生活習慣も変われば、昔の一億総火の玉的な発想は廃れていくのは当然、だからいいとも悪いとも思わない。そして、2006年の東京で、やっぱりぼくは年を取って、おっさんになったんだなと痛感した年でもあったんだな。